私は「不幸」でなければならない。
そのように「思い込んでいる人」と私はたまに会います。
正直言いますと、「役者」を目指している方に多く見受けられるのです。
さて、その状況の事を精神分析を背景に持つ「交流分析」の世界においては、
脅迫的に自分自身の人生ドラマを演じる為の「脚本」と言いいます。
「脚本」とは舞台や映画の「脚本家」が書いたモノを指すわけではありません。
自分の家族・自分の環境、そういった背景によって、実は自分自身で「脚本」を構築している場合があるのです。
「私は、『不幸』でなければならない。」
とは
「私は、『成功』してはならない」という事の同義です。
「成功」の一歩手前で、「ワザ」と不幸の転落をしてしまうような行動と発言をしてしまいます。
つまり、
「悲劇のヒロイン」を演じている自分に酔っているわけです。
この場合、荒治療に近い事になりますが、
一度、「幸福な人」を演じてもらうしかないと、演劇の演出家を専門としている私は考えています。
そもそも、本当の「幸福な状況」という体験がないからこそ、「悲劇のヒロイン」に妙な味を占めてしまうわけです。
「不幸な人を演じる事ができる」ならば、「幸福な人を演じる事も可能だ」と思考を180度変えてもらうしかありません。
その「幸福な人」の種類が少ないのが難点なのですが・・・。
演じるという行為は「ミイラ取りがミイラになる」という事を知らなければなりません。
つまり、「犯罪者を演じると、犯罪者の思考や闇が入り込んでくる」という事でもあるわけです。
演技とは危険なのです。
それを知らない、素人の演出家と脚本家が多すぎます。それが私には大変残念なのです。
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